「不倫をした人/してしまう人」を断罪しても仕方がないと私が思う理由【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第4回
人間にはさまざまな欲望があることは、古代から知られていたことだった。聖書には十戒という、信仰の十の戒めがある。神がモーセに授け、モーセが人々にそれを伝えた。十戒の結びの部分は、信仰者以外が読んでも今なお新鮮である。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 出エジプト記 20:17(新共同訳)
ここで気を付けないといけないのは、わざわざ禁じているということはすなわち、人間がそれをしょっちゅうやらかしていたということである。聖書では、あの伝説的な王ダビデでさえ他人の妻を欲しがり、彼はなんと彼女の夫を意図的に激戦地に送り込んで戦死させ、彼女を自分のものにしてしまったのだ。まさに十戒違反である。他人の妻あるいは夫を羨ましがり、そのパートナーを妬む。羨ましいのが先か、妬むのが先かは鶏と卵である。いずれにせよそれは、「他人のところにいる」から欲しいのである。三角関係は二人では成立しない。「あいつが愛しているあの人を」欲しいと思う。
他人の芝生は青いどころではない。他人の芝生はゴールデンである。一緒に暮らしている人を、いつもそばにいてあたりまえの存在と思うようになってしまう。ちょっとしたすれ違いで、その人と過ごしていると息が詰まるようになった────そんなときあなたは、その人以外の誰かが欲しくなってしまうのかもしれない。それも、よりにもよってすでに他のパートナーがいる誰かに、強い欲望を感じてしまう。仮に相手が独身であったとしても、そのメカニズムはほとんど同じである。今はまだ自分のものではない、しかしいつでも他人のものになりうる、身近な他者を欲してしまうのだ。
一夫一妻の結婚史に、その原初から不倫の歴史もこびりついてきたのかもしれない。だとすれば、たまたま不倫をしてしまった人を、これみよがしに断罪しても不毛ではないか。あなたが既婚者であったとして、あるいはこれから結婚を考えているとして、古代から不倫は続いてきたのに、あなただけは絶対に不倫などしないという保証は、どこにあるだろうか。
不倫は、パートナーとの関係に強いストレスを感じているときにこそ起こる。わたしはさまざまな相談を受けるなかで不倫の相談を受けることもある。だが一人として「不倫が楽しくて仕方がない」という人はいない。もちろん、不倫が楽しくて仕方がない人は、そもそも教会にやっては来ないだろうが。少なくとも教会に話しに来る人は、むしろ「不倫が苦しくて仕方がない」。夫婦関係を続けることも苦しいし、隠れて行う不倫も苦しい。苦しくてたまらないのに、それでもやめられないのが不倫なのである。不倫が露見した人の鬼の首をとって喜ぶのは、苦しむ当事者の傷口に塩を塗り込むようなものである。他人の不倫を嘲笑する人は人生のなかで一度でも、自分の妻/夫/恋人以外に欲情のまなざしを向けたことはないのだろうか。